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フィクションと現実は……

ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか』(Pourquoi la fiction, Seuil, 1999)を見ているところです(ざっと3分の2)。少し前に邦訳も出ていますが、原書のkindle版も出ていたので、とりあえずそちらで。

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冒頭はとても面白いです。フィクション(本でも映画でもゲームでも)が隆盛する現代にあってもなお、西欧世界には、プラトンに端を発する、「フィクションへの恐れ」のようなものが執拗に存続している、その正体は難なのか……そんなことをめぐって話が進んでいきます。フィクションへの恐れとはつまり、その根底にあるミメーシス(模倣)の、人を巻き込み絡め取ってしまう伝播力への警戒感です。それに乗っかるかたちで、フィクションは現実との境界を突き破ってくるのではないか、圧倒的な現前の力でもって人を騙してしまうのではないか、と人(とくに西欧の)は恐れるというわけです。

著者のシェフェールは、しかしそれは問題を取り違えている、と指摘します。フィクション(文化的な作り物としての)は現実に闖入してはこない。そのあいだには大きな理論的飛躍がある。そもそもミメーシスには、楽しみのために想像力を用いるという、ポジティブな効果もあるではないか(アリストテレスがその点を評価している、と)……。ここから、「フィクションとは、ミメーシスとはそもそも何であるか」という問題が大きく取り上げられることになります。

シェフェールはこの問題に、いわば機能主義的な一元論で取り組んでいるように思われます。ミメーシスとはつまるところ、対象となる表象の認識にほかならず、対象が虚構か現実的なものかでの、機能的な違いなどない、と考えるのですね。もちろん対象が虚構か現実かでの区分もありえないくはないわけですが、もとが一元的であると捉えるなら、その区分はあくまでも事後的な、本質とは関係のない区分形式にすぎなくなります。そのようなスタンスから、心理学や文学理論などの様々な論者の主張が検証されていきます。形式分類論みたいになっていくので、このあたりは少し退屈な気もしますが……。

とはいえ、この機能主義的な一元論は、総じてとても強力です。現実と虚構の取り違えはそもそも原理的に起こりえないということになるからです。なるほど、文化的な作品世界なら、そのような取り違えは、実際に起こらないし、原理的にも起こりえないのでしょう。それは誰もがうっすら感じていることで、そこにあえて理論的な枠を設定してみせた、というのが同書の大きな功績なのかもしれません。

でも、今やフィクションと現実との境界は、また別の次元、別の社会的文脈で混交するような事態にもなっています。ここをどう考えるのか。そのあたり、一元論に突きつけられる新たな問題ということになるのかもしれません。