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言語化はときに追い込む

wowowで配信・放映していたアルノー・デプレシャンの映画『私の大嫌いな弟へ(2022)』を観ました。

ある集まりの席で、何気なく「あんたのこと、ずっと嫌いだった」と弟に言い放った姉。弟は売り言葉に買い言葉よろしく、「そんなこと、知ってたさ」みたいに返す。二人とも笑みを浮かべて。普通なら、これは仲の良い姉弟の、ちょっとふざけただけの会話でしょう。しかしここでは、役者として知られるようになっていた姉と、作家志望の弟の間に、おそらく様々な思いがあったようで、これがきっかけで、二人は20年あまりも、互いを避け続けるようになってしまうのです。

https://www.imdb.com/title/tt14622802/

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なかなかすごいシチュエーションですが、胸のうちに抱えたもやもやしたものが、なんらかの言語化によって、いっきに構造体として組み上がる、というのは現実にありうる話ですね。漠然とした思いが、なんらかの言葉によって、まるで回路に流し込まれるかのように整理されるのですが、いちどそうして構造化されてしまうと、人はその構造体にこだわり、その回路を執拗に強化してしまう、という感じです。おもに好き嫌いが絡む場合が多いように思われるこの現象、実は結構そこここで生じているのかもしれません。言わずが花といったことが、表現されてしまえば、もはや取り消すこともできなくなります。

これもまた、身につまされる話ですね。「言葉になっていないものは、ひたすら言語化していけばよい」なんて、必ずしもいえないということです。言語化されてしまったものが、人を追い込んでいくこともある、というのは心しておいたほうがよいかもしれません。

ではその、凝り固まったしこりのような構造を、どう解きほぐしていけばいいのか。映画はそのあたりの問題について、ぐるぐると回りながら、解決の糸口を探していこうとします。もちろんそれは、簡単なことではありません。

デプレシャンの映画は、かなり以前に観た『そして僕は恋をする』など、わりと初期作品から、そうした言語的な現象への独特な感覚が、とても鋭敏に感じられるような気がします。今回のものは、確執が弱まっていく過程を描こうとしている感じですが、でもやはりこの、追い込む言葉のありようが、最も鮮烈に記憶に残る気がします。