最近読んだものから、その2。
サラ・ベイクウェル『実存主義者のカフェにて――自由と存在とアプリコットカクテルを』(向井和美訳、紀伊國屋書店、2024)。サルトルやボーボワール、カミュ、メルロ=ポンティなどを中心に、また、彼らに先立つフッサールやハイデガーら現象学の要人たちなど、20世紀ヨーロッパの思想の展開を、人間的な細かなエピソードでもって描き上げ、一種の群像劇として示しています。
これは見事なノンフィクション。精緻な筆致で、長いけれど一気に読ませる労作です。こういう細やかな、エピソードベースで思想史に入門できる本というのは、案外少ない気がします。その意味でも良書だと言えそうですね。
えてして無味乾燥になりがちな思想史の記述に、人間くさいエピソードの数々が、彩りと深みを与えています。こういう記述でもって、いわば立体的に描き出されると、思想史の流れも、また違った風景に見えてきますね。第二次大戦の戦中・戦後の情景や、そこで繰り広げられるサスペンスフルな出来事などは、とりわけ想像をかき立てます。
個人的に興味深かったのは、全体的に、最初に和気あいあいとしていた仲間たちが、やがて状況への反応を通じて、お互いの意思疎通がうまくいかなくなっていくさま。エントロピーの増大、でしょうか?思想家は誰もが、状況に即して、また相手を想定して、なんらかの主張を展開するものだと思いますが、そうした営為には、様々な軋轢や不和を醸し出していく契機が、あらかじめ内在しているのかもしれません。普通に考えて、時間の経過とともに、考え方の違いが際立っていくようになるのは、人の関係の常なのかもしれません。でも大学人やら作家のように、ある種のナルシスト的な人々においては、その傾向はいっそう顕著になっていくようにも見えます。もちろん仲のよいままの人々もいるわけですけどね。
ときに最後は喧嘩別れのようになってしまうのが、なんとも悲しい。ハイデガーをとりまく人々もそうだし、サルトルをとりまく人々もそう。何かこの、集団的な人間関係の悪化というのは、なかなか興味深いテーマかもしれないなあ、と改めて思ったりします。