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多様性から連帯へ?

「SFの嚆矢」と称されるルキアノス作品には、前に取り上げた「本当の話」のほかに、「イカロメニッポス、または雲より上の人」というのがあります。Loeb版では2巻に収録されています。これを読了しました。

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これは、鳥よろしく羽をつけて月世界にまでいった主人公(メニッポス)が、その天上世界の哲学者たち、さらには神々と話をするという趣向のお話です。まあ、SFというよりは、哲学諸派が群雄割拠しては互いに譲らない様を、皮肉っては揶揄してみせる風刺劇という感じですね。天上世界から主人公が力を分け与えられて、世界を俯瞰して「小っちぇえ」みたいに言うところとか、なかなか辛辣かつ味わい深い描写もあります。

諸派が対立しあって一歩も譲らない……。これは古代も今も大して変わらないところです。そのことは、単に哲学だけの話ではありませんが、前にも記しましたが哲学というものが、「何かへの異論・反論」として構築される以上、やはり哲学はそうした分断・分割の最たるものにならざるをえないのでしょうね。

ちょうど、kindle unlimitedに入っていた岩内章太郎『<普遍性>をつくる哲学』(NHK出版、2021)を読んでみたところです。これ、最初はマルクス・ガブリエルの新しい実在論・新実存主義の紹介から始まります。哲学史的な流れをふまえて、その基本的な思想が、構築主義などの多元論・相対論を批判する立場であることをわりとゆったりと解説していきます。メイヤスーやハーマンなど同時代的な思弁的実在論の論者たちについても触れています。

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ところがこのあたりで話は一転し、新しい実在論陣営の内部が再び分裂状態になっていることが示されていきます。認識(主観)を通じて対象(客観)が掌握される場合に、認識する側によって対象が構築されるというのが相対論、一方、そうした認識から独立して対象があると捉えるのが実在論だとすると、この後者では実在を認めつつも、では認識が何をどう捉えるのかについての議論が、また新たに分化してしまう、というのですね。いやはやというか、やれやれというか……。

で、こうした状況を打開すべく、同書の著者は、フッサールの現象学に立ち戻り、認識・主観の多元性はそのままに、対象・客観の存在を認めることができるような原理を、フッサールをベースに打ち立て直そうとしていきます。この、フッサール再考が同書の後半というか3分の2くらいを占めるのですが、解釈学を経たりしてちょっと散らかったような現象学ではなく、ずばりストレートにフッサールへの回帰というところが、なにやら意外な、ある意味新鮮でもある取り組みにも思えました。と、その一方で、やはりビッグネームに回帰していくのが、良くも悪くも哲学の伝統的な構え方なのかもしれない、なんてことも思っちゃいますね。

話は戻りますが、ルキアノス、次は2巻冒頭の「下方への旅」を読んでみようかと思っています。