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訂正の可能性、転喩の可能性

アクロバティックな読み

このところ、東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン、2023)を読んでいます。とりあえず前半の第一部。家族概念を、従来の組織概念に膨らませている(家族の外には、別の意味での「家族」しかない……)ことと、その組織のルールが遡及的に変更されながら、それでいて一貫性を保っている(それもまた遡及的にしか見いだされない……)ことの指摘が、大きなポイントになっています。

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議論の全体を支えているのは、まずはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、クリプキの懐疑論です。それらが、ここではなんと、組織論(共同体論)に絡めるかたちで読み返されています。これには「おおっ」となりますね。このような読み方は凡百の論者にはできない種類のものでしょう。批評を長くやってきた著者の、目のつけどころの違いというか。

著者はさらに、ローティーの連帯論や、アーレントの公共性の議論なども接合していきます。これらを通じて、共同体が維持されるには変化がなくてはいけない、共同体が変化するには一貫性がなければならない、といった論点が強調されていきます。

それにしてもこの読み方、著者も触れていますが、おそらく大学の哲学プロバーの研究者などからは評判が悪いでしょう。「ウィトゲンシュタインの議論はそんなことを示唆していない」とか「クリプキの意図はそこにはない」とかなんとか。思うにそれは、根本的な研究意図の方向性が違うからでしょう。専門の研究者は元のテキストに込められた意図へと向かうのに対して、同書はそのテキストをジャンピングボードとして、そこからの飛翔を求めている、という感じですね。

メタレプシス

このような、少し違った別筋の読み方、アクロバティックな読み方は、ある種の直感的なものなのかもしれませんが、では、なんらかの訓練によってたどり着けないものなのか、という疑問も浮かびます。で、そのためのヒントとして真っ先に浮かんだのが、ジェラール・ジュネットによる『メタレプシス』(転喩)です。2009年の本ですが、一昨年、邦訳も出ました(久保昭博訳、人文書院、2022)。

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メタレスプシスというのは、狭義では「先行する事象を後続する事象で表す」あるいは「後続する事象を先行する事象で表す」という意味ですが、ジュネットが論じているのはむしろ広義の、「比喩をさらに換喩的に置き換える」(換喩的転義)、「すでに比喩として用いられている言葉を、さらに比喩的に言い換える」(多段転義)のほうです。

ジュネットはそれを、単なる文彩としてではなく、虚構を打ち立てるための仕掛けとして取り上げ、小説、映画、演劇などの多彩な表現芸術において、転喩がいかにそうした表現世界・虚構世界を作り上げているかを示していきます。たとえば一人称の小説形式において、著者が語り手となり、場合によっては登場人物の一人になるものなども、ジュネットによれば「転喩的操作」だとされます。脱線ですが、役者のニコラス・ケイジが作中で、登場人物のニコラス・ケイジを演じる『マッシブ・タレント』なんて映画など、その最たるものかもしれません。

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話を戻すなら、『訂正可能性の哲学』でのテキストの読み方も、そのような転喩的操作を思わせます。もちろんここでは、人称ではなくて、より一般的な言葉の転義のほうの操作です。家族という言葉が、小さな単位の家族から、より大きなものへと拡大されるように、参照するテキストで使われている言葉も、もとの意味からあえて転義的に受け止めることで、読みの可能性(の地平)をさらに拡大させることができるかもしれない、ということです。考えてみると、そうした操作は実は本来、歴代の哲学者が行ってきた、とても哲学的な操作だと思うのですよね。

専門的研究の方向性はそのままに、一方で、それとは別筋のそうした哲学的営為としての操作も、もっとなされていい、もっとなされるべきかもしれない、との思いが強くなりました。