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身につまされる話

保身的な「同調」

少し前ですが、キャス・サンスティーン『同調圧力』(永井大輔・高山裕二訳、白水社、2023)を、ざっと読んでみました。

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デモクラシーのいわゆる陥穽としての同調現象。実験心理学の成果などにもとづき、それらを敷衍しながら、現代アメリカの政治的状況について論じています。個人的には、実験心理学の部分は興味深いものの、アメリカの政治批判はちょっと飛ばしすぎの嫌いもあるかな、と感じました。ま、それはともかく。

とりあげられている主要テーマは、「同調」「カスケード」「極性化」の3つです。最初の同調のところで、すでにして身につまされる感じがします。なぜ人は同調しようとするのか。一つには、相手から「嫌われたくないから」というのがある、というのですね。小さなコミュニティなどにおいても、これは現象として生じてしまいます。要は、孤立しないため、保身のために、相手についつい合わせてしまう、と。そういうところ、往々にしてあるなあ、と思うのです。

でも、一度そうしてしまうと、なかなか後からの軌道修正はできなくなってしまいます。そこから、増幅現象であるカスケードや極性化(極端化)へと至る道のりは、そう長くはなさそうです。後のことを考えると、同調はある種の一般的な悪癖として、無効化するに越したことはなさそうですが、それが保身を根っこにもっている場合、簡単な話ではなさそうです。

このことから、書かれるべきはむしろ「保身論」ではないか、という気もしてきます。

保身としての謝罪も

もう一つ、古田徹也『謝罪論』(柏書房、2023)もちらちらと見ているところです(これは現時点でkindle本がありません)。オースティンの言語行為論を批判するところから始まるのが、なかなか刺激的です。

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基本的には、謝罪という括りで語られる行為について、それが含意する意味の広がりを、分類し体系立ったかたちで描き出そうという本のようです。

で、これも身につまされます。今度は、同書が正面切って取り上げていない(?)、社会にはびこる嘘としての謝罪、謝罪のふりをした偽の謝罪について、思いがめぐってくるからです。

政治家や官僚は言うにおよばず、いろいろなところで不誠実な謝罪の「ふり」が繰り返されているわけですが、そういうものがどこか表面的に受け入れられて、忘れられていく。この現象は何なのかが、とても気になります。ここでもまた、問われるのは「保身」ということのような気がしますね。とするなら、やはり書かれるべきはむしろ「保身論」ではないか、と思うのです。