少し前ですが、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくま新書、2023)を読んでみました。数値化がある種の「猛威」を振るい、猫も杓子も客観的なエビデンスを求める今の時代に、そこからこぼれ落ちてしまう個人の経験というものをすくい上げようとする、フィールド哲学(現象学)の可能性を論じています。これは立ち位置が素晴らしいですね。
数値化はすなわち序列化です。そして序列化した世界に位置づけられる個人は、その位置づけの責任をすべて引き受けなくてはならず、いきおい、「社会規範に従順になることこそ合理的」(p.41)とされるようになってしまいます。新自由主義って、まさにこういう世界観です。
それと対極をなす構え方として、著者は、個別の経験の「概念」を共通の理念として捉えるという、現象学にもとづく方法論的な「普遍」を称揚します。これって、人が他者に開かれるというベクトルですね。共感の世界観に立脚するというか。すると、序列化をめぐって競い合う人間ではない、相互にケアしあう人間、ケアの一般化が導かれることになるのでは、というわけです。どちらが豊かかは言うまでもありません。
少し前に、東京新聞で、哲学者の鷲田清一が、「それってあなたの主観ですよね」という、今や小学生すら使う論法の、視野の狭さ、議論としての貧しさを指摘していましたが、そのことも同じ問題圏をなしていると思われますね。客観ばかりを振りかざして主観的な認識を排除しようとすれば、主観的だからこその新しい着眼点、未知なる論点などに気づくこともなくなり、互いに考え合うという議論の本筋も失ってしまう、というわけです。客観的なデータはときに必須でもあるけれど、主観的な解釈がもたらすものも、それに勝るとも劣らないということを、もう一度かみしめたいと思います。