昨年から今年にかけては、いろいろと面白い本が出ている印象ですが、これもそれに加えられそうです。デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』(酒井隆史訳、光文社、2023)。1ヶ月くらいちびちび読んでいて、まだ半分(苦笑)。でも、人類学がもたらしうる壮大なビジョンに、久しぶりに触れた感じがして、個人的にはとても楽しんでいます。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』のあのグレーバーですね。
というわけで、とりあえず前半というか、冒頭部分について、備忘録的な簡易メモを。この本の基本的なスタンスは、通俗的に受け入れられている社会進化論的な人類史の説を、いくつかの新しい見地から批判し、覆していこうというものです。人類の黎明期に、狩猟から農耕への転換が起こり、定住化によって富の蓄積や社会の組織化が可能になって、各地に文明が築かれることになった、という話は、ある意味普遍的な、揺るぎないストーリーとして受け入れられているわけですが、「いやいや、実際にはもしかすると、それほど直線的で揺るぎないものでもなかったかもね」と、著者たちは言い始めます。
そうしたストーリーは学問的な理論に支えられていると考えられがちですが、実は単なる推論・推察に支えられている部分も多く、ある種の神話、ストーリーにすぎないという側面もあるのだ、というわけです。近代におけるその嚆矢となっているのが、ルソーだったり、ホッブズだったりするわけですが、では、それらの社会進化論の基盤は、いつごろ、どこから出てきたのかというのは、あまり知られていない、と本書の著者たちは指摘します。
彼らによると、それは新大陸発見後に、西欧人たちと先住民たちとが交わした、膨大な議論に端を発しているのだ、といいます。先住民というと、まさに神話的世界に生きている粗野な人々という固定イメージで語られることが多い(今なお)と思いますが、実はそうではなく、西欧人たちの諸制度や宗教などを、かなり批判的に見ていたというのですね。西欧がわがものとして重視する理性への訴えなども、先住民との長期にわたる論争によって培われたものだった、というのです。
西欧の社会進化論は、先住民からの批判への応答としてはじまった————これだけでも、すでにして衝撃的なイントロになっています。話はここから、先住民の社会が、ある種の洗練された、動的なものであったこと、彼らの生活様式が一枚話ではなく、多様なものだったこと、そしてまた、そこに重なるかたちで、社会進化論が語る黎明期の人類というものも、考えられている以上に多様かつ動的なものだった可能性へと、広がっていきます。
その途上、近年の人類史のベストセラー(ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなど)なども批判の俎上に載せられていきます。学問というものが、固着と流動化とのあいだを揺れ動くものだということを、感慨をもって受け止めさせてくれて、なかなかに圧巻です。