雑誌ですが、『現代思想』の1月号にも一通り目を通してみました。特集は「ビッグ・クエスチョン」ということで、哲学の入門編などで言及されるようなとても「大きな」問題に、様々な著者が回答を寄せています。これって、いわば「大喜利」本ですね。
大きな問題は、当然ながら短い論考で即解決するようなものでは到底ありません。そんなわけで、著名な著者たちによる回答も、ある種のアプローチを示唆するぐらいのものです。気の利いた示唆がどれだけできるかを、競っているという感じなので、「大喜利」というわけです。
個人的に面白かったものとして、一つには「なぜ人を殺してはいけないのか?」(小手川正二郎)がありました。こんな一節があります。
他人を人道的に扱うよう人々を動機づけるためには、相手を「人間」として観ることを促すよりも、それに付加されている表象を露わにし、その表象の妥当性を問い直したり、自己と他者の(不均衡な)社会的位置づけに働きかけたりする方がよいということになろう。(p.72)
人に倫理的に接する上で、レヴィナスの他人の「顔」についての論が取り上げられています。人は他者の顔に対面することで、他人を認知する新たな方向付けが得られる、つまり認知が先ではなく、他人との関わりが先なのでは、というわけです。自明視される順序を問い直しましょう、と。
もう一つは「心と身体はどのような関係にあるのか」(木島泰三)です。通常、常識的にただちに否定される「脳内ホムンクルス説」を、機能分析として捉え直すことが提唱されていたりします。
電気回路のような機械は、心、生命、目的、といった概念なしで機械論的に、つまりアリストテレスの言う「作用因」の連鎖として理解できる。(…)このように考えれば、「脳内のホムンクルス」の発想を、無内容な無限後退ではなく、生産的な機能分析として捉えることが可能になる。この説明は、ライプニッツの言う「目的因の法則」と「作用因の法則」の重なり合いと関わり合いを巧みに捉えていると言えよう。(p.159)
神が存在するかどうかという問題にも、「神」を「フライング・スパゲッティモンスター」に置き換えるだけで「問題の論理的構造が全く同じであるにもかかわらず、問題そのものがまるで異なった相貌を帯びるようにるとしたら、それはその問題の「説き難さ」の確信が論理的構造以外のどこかにあることを示唆するだろう」と指摘しています。
この論点は、「神の存在は証明できるのか」(アダム・タカハシ)が指摘する、「アウグスティヌスにとって、理性によって仕向けられた欲求の向かうべき対象こそが神であり、その神に愛をもって固着することこそが「幸福」であった」みたいな話にもつながっていて、なかなか面白いです。
もう理性だけがどうのこうのではないのかもしれません。哲学が理性・合理だけに限定されるかのように描かれてきたのはもう過去の話で、今やより流動的な部分、欲望とか欲求、あるいはホーリズム的な関わり、固着・執着といった別様の視点、総じてより感情的な面が、哲学的営為においてすら重要視されるようになっている、そんなことを感じさせる年頭の一冊でした。