松本直美『ミュージック・ヒストリオグラフィー———どうしてこうなった?音楽の歴史』(ヤマハミュージックエンターテインメント、2023)を読んでみました。音楽の歴史記述の変遷を、面白おかしく活写した好著でした。増刷されたという話にも頷けます。
著者は英国の大学で教えている音楽学者ということで、その講義風の語り口がとても印象的です。扱っている中身は、メタ視点も含んだ歴史音楽学の歩みが中心です。音楽の歴史記述では、なぜ伝記的な要素ばかりが取り上げられるのか、なぜ特定の音楽家が取り上げられているのか、彼らはいかにして名声を保ってきた(?)のか、なにゆえにどこかの時点で復活したのか、あるいは忘れ去られたのか、といった問題ですね。
そのトピックのあいだに、よい意味での脱線とでもいうべき、様々な逸話が語られています。まるで実際の講義みたい。それらがまた面白く、同書の魅力にもなっています。たとえば、日本ではかつて映画音楽全集みたいな企画の常連だった、「クワイ河マーチ」の原曲「ボギー大佐」が、英国では「鼻くそ大佐」として揶揄されていた、といった話など、思わず笑ってしまいました。
で、これまた意外な話で興味深かったのですが、有名なニューグローヴ音楽事典などには、実はいくつか「偽項目」(あるいは虚構記事)が忍び込ませてあるのだとか。これ、剽窃防止のための苦肉の策だったとのことで、19世紀以降の事典類では、伝統的な習慣として、そうした偽項目が散見されるのだとか。英国ではこれをマウントウィーゼル(山イタチ)と称するのだとか。これ、実に面白そうです!本当に剽窃防止になっていたのか、同じ偽項目がある事典はどれほど出回っていたのか、どれほど相互に影響しあっていたのかなどなど、たくさんの疑問が出てきます。偽項目だけに特化した研究書とか出ていないのでしょうか。個人的に、とても気になったのでした。